柳家 小さん逝去 

14.5.16

 

        四国遍路の最中「小さん」の逝去を知った。昨年噺を聞くチャンスがあったのに当日会場に行ったら「体調不良」で代演

        だった。87歳、もう一度聞きたかった。

 

 

 

                 

落語界初の人間国宝になった柳小さんさん。「タコの釜入り」など、明るい芸風で親しまれた

森繁久彌も小さんさんと最後のお別れをした

 
スポーツ報知新聞記事・ 14.5.17

小さん師匠逝く 落語界初の人間国宝
87歳心不全

 落語界で初の人間国宝となった柳家小さん(やなぎや・こさん、本名・小林盛夫=こばやし・もりお)さんが16日、心不全のため都内の自宅で亡くなった。87歳だった。「うどん屋」「大工調べ」などを得意とし、明るい芸風で人気を集めるとともに、落語協会会長として落語界の近代化に力を注いだ。昨年10月に亡くなった古今亭志ん朝さんに続いて、また昭和の笑いを支えた名人が世を去った。

前夜まで普段と変わらず…眠るような大往生

 突然駆けめぐった訃報(ふほう)に、落語界は大きな悲しみに包まれた。東京・目白の小さんさんの自宅には午前中から一門や落語関係者が続々と弔問に訪れた。

 小さんさんは、15日夜も食事を残さず食べるほど元気だったという。普段と変わらない様子で床についたが、16日の朝8時に長女の美喜子さんが寝室に行ったところ、体はすでに冷たくなっていた。医師の診断では亡くなったのは午前5時ごろ。弔問に訪れた三遊亭円歌(73)によると「起こしたら起きてきそうなくらい安らか」で、眠るような大往生だった。自宅の剣道場に祭壇が作られ、遺体は剣道の本などと一緒に安置された。

 小さんさんは昨年夏ごろから体が弱り、一人で風呂に入ることも大変になったという。大好きだった剣道のけいこの回数もめっきり少なくなった。2月2日の鎌倉芸術館が最後の高座になった。

 長男で落語家の柳家三語楼(54)は、偉大な父で師匠の死に「優しいところもあれば厳しいところもあった。いつまでも長生きしてほしいと思ってましたが…」。孫で最後の直弟子となった柳家花緑(30)は明治座の公演後に駆けつけ「自分の中ではかなり教えてもらったので、それをバネにしてこれから伸びていきたい」と、悲しみを胸にしまって飛躍を誓った。

 3歳から東京・浅草で育ち、18歳で4代目柳家小さんに入門した小さんさんは、二・二六事件(1936年)に二等兵として反乱軍に参加している。立てこもりの間に落語を披露したエピソードを持つ。50年に5代目小さんを襲名、72年から24年にわたって落語協会会長を務めた。自然体の落語に親しみやすい容ぼうに加え、ドラマやCMでもお茶の間で人気者だった。

 95年には落語界で初めて人間国宝に。「昔は歌舞伎と落語は同列だったが、いつの間にか、落語が下になっちゃった。今回のことは、あたし一人でなく、落語界全体の喜びだね」と話したように、常に落語界全体を考えていた。その前年に胆のう炎で手術し、96年1月には脳梗塞(こうそく)で入院した。そのたびに剣道の素振りや居合で鍛えて克服してきたが、ついに力尽きてしまった。
◆柳家 小さん(やなぎや・こさん)

 本名・小林盛夫。1915年1月2日、長野県生まれ。1933年、4代目柳家小さんに入門。栗之助を名乗る。39年、二ツ目に昇進、小きんに改名。47年、真打ち昇進。小三治を襲名。50年、5代目小さんを襲名。72年、落語協会会長に就任。95年、人間国宝に。紫綬褒章、勲四等旭日小綬章、名誉都民、浅草演芸大賞、紀伊国屋賞などを受賞。剣道7段。
   
◆真打ち昇進を実技試験制に数々の改革を断行

 小さんさんは96年7月に落語協会会長を勇退した後も最高顧問として落語界の先頭に立ち続けた。会長を務めた24年間に、真打ち昇進を実技試験制にするなどの改革を断行。78年に6代目三遊亭円生が「真打ちを粗製乱造するな」と反発して弟子と共に脱会、83年には立川談志が試験制度や協会に対する不満から脱会するなど、協会運営が厳しい局面を迎えた時期もあった。

 だが、小さんさんは「落語家の生活の安定も考えて」と改革を進めた。勇退時には、円生の脱退騒動を一番印象に残るできごとにあげ、「改革を終えたので休ませてもらうことにした」と振り返っていた。

小さん師匠 安らかに眠れ

 16日に心不全のため亡くなった落語家で人間国宝の柳家小さん(本名・小林盛夫=享年87歳)さんの通夜が18日、東京・渋谷区の乗泉寺でしめやかに営まれた。落語協会葬として行われた通夜には、橋本龍太郎元首相(64)、俳優・北大路欣也(59)、落語家・三遊亭円楽(69)ら約1300人が参列しめい福を祈った。葬儀・告別式は19日正午から同寺で営まれる。

浴衣姿でほほ笑む遺影 1300人が焼香

 
 祭壇には浴衣姿でほほ笑む小さんさんの遺影。菊の花の上の遺影は参列者の目線の高さに置かれ、最後の高座が行われているようだった。遺影は10年前の夏に撮影したもので、自宅に飾るほど小さんさんが気に入っていたという。85年に受章した勲四等旭日小綬章の勲章や、東京都民文化栄誉賞、名誉都民のメダルも飾られ、生前の偉大な業績を物語っていた。

 落語界の大御所の死に、1300人が焼香の列を作った。俳優・森繁久弥、タレント・ビートたけし、歌舞伎俳優・尾上菊五郎をはじめ、個人・団体からの供花は500以上。読経後には弟子の鈴々舎馬風が歌う盆踊り調の「小さんが一番」が繰り返し流れた。笑いに人生をささげた人間国宝を、明るく見送る落語協会葬だ。

 棺には帽子、眼鏡、着物や帯などとともに「越中ふんどし」も納められた。晩年までふんどしを愛用していた師匠のために、弟子たちが新調したものだという。右手側には木刀、左手側にはステッキも。愛した落語と、毎日けいこをして7段の腕前を持つ剣道のための愛用品ばかり。天国でいつでも高座にあがり、剣をふるえるようにとの遺族の願いがこめられた。

 弔問に訪れた三遊亭円楽は、ある時小さんさんから「今の落語界はつまんないな」と言われたことが忘れられないという。「いつか来るとは思ったが寂しくなるね。芸風と立場は違うが一番のライバルだね。落語界が小さくなってしまったようだ」としんみりした表情。落語芸術協会会長の桂文治(78)は「安らかにお休みください」と涙ながらに言うのが精いっぱい。漫才師の内海桂子(79)は、昭和の演芸界を支えた“同志”の死に「人間国宝にふさわしい、芸に奥行きのある人だった。芸を残していけないのは悲しい」と声を落としていた。
遺言状に「語」「咄」使って

 
 小さんさんの戒名は「本行院殿法勲語咄日盛居士(ほんぎょういんでんほうくんごとつにちじょうこじ)」。寺への多大な貢献者にしか付けられないといわれる『院殿』の文字も使用、まさに人間国宝にふさわしい最上級のものが贈られた。

 近い死を予知していたのか、小さんさんは戒名を非常に気にしていたという。落語にちなみ「語」「咄」を使ってほしいと遺言状にも記してあった。「咄」には叱るの意味もあり、後輩への叱咤(しった)も含まれている。

 通夜・告別式場の乗泉寺は、小さんさんの命を救ってくれた場所。10歳の時に鼻にできたおできの悪化で一時危篤になり、父親はこの寺を訪れ、夜を徹して祈った。以来、信心深くなり「寺のためなら」と何よりも優先し、熱心な信者であり続けたという。
 
談志来なかった

 〇…公私に親しかった司会者の玉置宏、タレントの毒蝮三太夫も焼香に訪れた。2人とも83年に破門された小さんさんのかつての弟子・立川談志の紹介で交際がスタートしただけに、心境は複雑だ。玉置は「元気なうちに何とか2人が会うチャンスがあれば」と和解できなかったことが悔やまれてならない様子。談志はこの日も姿を見せなかった。

 松村邦洋(タレント)「番組(「進め!電波少年」)で1度、アポなしでお会いしてお世話になりました。ゆっくりお休みください」

森繁悲痛「順序が逆…」

 16日に心不全のため亡くなった落語家で人間国宝の柳家小さん(本名・小林盛夫=享年87歳)さんの落語協会葬が19日、東京・渋谷区の乗泉寺でしめやかに営まれた。

小さん師匠落語協会葬

 
 告別式には落語関係者の他に俳優の森繁久彌(89)、中尾彬(59)、黒柳徹子(68)ら約800人が参列し、小さんさんと最後のお別れをした。小さんさんより1歳年上の森繁は「私が早くあちらに行けばいいんですが、順序が逆になってしまって。まじめな方で、ときどき面白いことを言う。その話も聞けなくなり、まことに残念です」と沈痛な表情でめい福を祈っていた。

 1983年に小さんさんとたもとを分かち、立川流を創設した立川談志(66)はこの日の告別式も姿を見せなかった。小さんさんは3年前にインタビューをした春風亭小朝(47)に「いつまでたっても弟子は弟子だろ」と言っていたという。小朝は談志に落語協会に戻るように働きかけたこともあり「(談志は)天才・小さんの唯一の遊び相手でおもちゃですよ。寂しいんだろうな、遊びたいんだろうなと思った」と2人が再会できなかったことを悔やんでいた。

 告別式の最後には、親族代表で小さんさんの長男・柳家三語楼(54)が「子ども2人で見送れたのは最後の親孝行でした」と涙ながらにあいさつ。多くの人に親しまれた小さんさんは木遣りと参列者の拍手に送られて天国に旅立った。

石原都知事も弔辞

 〇…弔辞を読んだのは、落語協会会長・三遊亭円歌など5人。小さんさんは名誉都民に認定されていたため、石原慎太郎都知事の弔辞も読まれた。石原都知事がしたためた弔辞を高橋信行東京都生活文化局長が代読。「人々に笑いと潤いを与えたご功績と人柄はこれからも多くの人々の心に残る」とたたえていた。

しめやかに営まれた小さんさんの告別式