1.1番〜27番 渡辺 忠三郎 はじめに 信仰心なんて全く縁の無い私だが数年前から「四国88ヶ所」歩いて見たいと思うようになっていた。夢というかロマンを感じていたのだと思う。 過去に夏休み等を使い一週間程度の一人旅は良くしていたが50日近く一人で全て歩く旅行なんて考えただけでも「武者震い」しそうな夢だった。 何時の日か退職したら行って見たいと思うようになり周りの人にも話すようになっていた。 体力は毎日一万歩以上は歩いて足の訓練を続け、3月に「秩父34所観音巡礼」5日間・100kmを完歩して「これなら四国も歩けそうだ」と云う自信も得た。 しかしいざ50日近く家を空けるとなると退職後とは云ってもなかなか難しい。 この3月やっとスケジュールの調整が出来、妻の承諾も得て4月下旬から6月にかけての「四国遍路」を決めた。 退職後もう2年近くが経過していた。 四国遍路」に出掛けるのに際し立てた目標は、 1.「全て歩き通す事」 2.永年の夢だったのだから「楽しんで来る事」 3.余り肩を張らずアクシデントがあったら「潔く諦め帰ってくる事」だった。 へんろみち保存協会編「四国遍路ひとり歩き同行二人・別冊」を持ち、これで地図と宿泊先の情報はOK、余り先入観を持ちたくなかったので先輩たちの体験談や本等は余り読まないで出発する事にした。 1.憧れの1番霊場「霊山寺」の前に立つ
JR・坂東駅 1番霊山寺門前 平成14年4月26日新幹線・マリンライナー・うずしお・と乗り継ぎ3時16分JR板東駅に到着。静かな駅で、降りた乗客は私だけだった。 「さあこれからもう一度この駅に戻るまでは全て歩き通すのだ!!」何か奮い立つような闘志が自然と湧いてきた。 10分程歩いて「霊山寺」に到着、門前では100名ほどの団体客が記念撮影、白衣のお遍路さんも多くて四国へやって来たことを実感する。 早速本堂内の「納経所」脇売店で遍路用品を購入。金剛杖・輪袈裟・経本・数珠・納経帳 ・納札で8,280円、白装束・菅笠はちょっと迷ったのだが買わなかった。 4時50分数日前、所沢から予約をしておいた民宿「観梅苑」へ到着。真新しい金剛杖を鈴の音をさせながら突いて歩くのがまだ慣れないので照れくさく感じられる。 夕食の際、私以外にタクシーで回られるお遍路さんの夫婦、歩きの二人ずれ、運転手さん等が居られたが誰もアルコールを飲んでいない。「お遍路さんは、アルコールは飲まないのだ」と思い私も数ヶ月振りにアルコールを抜いた。
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2.無我夢中・あっという間に10番へ(1日目・4/27)
5番地蔵寺・五百羅漢 4番大日寺への遍路道(板野町)
6番安楽寺・本堂内の納経所
9番法輪寺山門 いよいよ今日から長い旅が始まる。 民宿「観梅苑」で早い朝食の後、昨日お参りは済ませてある1番霊山寺の門前にもう一度立ち、7時25分歩き始める。出で立ちは、「黄色のポロシャツにベスト・薄いベージュのズボン・野球帽・青のリュックサック(約8キロ)」である。金剛杖は持っているが余りお遍路らしくない。 歩く道筋には、菅笠・白装束のお遍路さんがちらほらと言う感じで数名を追い抜いてわずか20分足らずで2番「極楽寺」へ到着。 「さてお寺に着いたらどうするのだっけ。」事前の勉強はほとんどしていないから作法の本を見ながら他のお遍路さんの状況観察。マイクロバスや自家用車のお遍路さんが「般若心経」の大合唱。ボイスバーに録音しながら見よう見まねでなんとかお参りをして、納経帳に墨書授印してもらう(納経料金300円) 大師堂にも同じようにお参りをして約25分。20分歩きお寺で25分、急いで回るつもりは無いから時間の事は良いのだが、これから残り86ヶ所の寺でどれだけの時間を費やすかがひとつのポイントになりそうだ。 愛染院を経由して4番「大日寺」へ向かう板野町の遍路道は、県や環境庁の案内板によると「江戸時代末期から明治にかけて作られた道標等がたくさん残されていて、昔をしのぶ事ができる数少ない遍路道」との事。 アスファルトの上をずうっと歩いてきた足にとってこの土の遍路道は随分やさしく感じられ、緑に覆われた道は気持ち良く歩く事が出来た。 |
4時15分民宿「坂本屋」へ荷物を置いて10番「切幡寺」へ、急な参道を登った後「仁王門」から330段の階段を登って本堂へ。朝から歩き続けた初日、疲れた体にとっては、きつい登りだった。何とか5時までの納経時間には間に合う事ができる。 ほとんど終日、今田植えが真最中の田や畑の中を歩く、天気が良いので顔や腕はかなりの日焼け。「お遍路さん道が違うよ」と家の中から出てきて声をかけられたのが一度、数名の歩き(区切りの)遍路の人とのコミュニケーションも体験できる。いずれにしても実質初日、無我夢中であっという間の10番だった。 (夕食のコミュニケーション) 民宿「坂夲屋」の宿泊者は10名程で全てがお遍路さん、夕食は長テーブルに向かい合って一緒に食べる。これから通しで歩くのは私の他に福岡の男性、結願して1番へ戻る男性、区切りで歩く大阪の女性(上田さん)、バイクで遍路の若い女性、乗用車で遍路の夫婦etc。 全て初対面の人なのだが、何年も一緒にいる家族のような雰囲気で話がはずむ。これからの予定が中心の話題、皆それぞれの計画を持っている。結願して1番へ戻る人の噺は私にとって貴重な情報となった。 それにしても今日の夕食ほとんどの人がビール、私もすかさず「ビール1本」そして2本。結局アルコールを完全に抜いたには昨夜だけで、後は全て呑む事になってしまった。
3.へんろ転がしの難所「焼山寺」へ(2日目・4/28)
8:10吉野川(四国三郎)を渡る 9:55 焼山寺への登り口
15:45焼山寺に到着記念写真 焼山寺宿坊・精進料理 今日の日程については、昨夜からちょっと迷っていた。 昨夜10番に泊まっているから、11番までが約3時間・それから12番「焼山寺」へは、並足で6時間、ゆる足ならば8時間かかるとの情報。おまけに数箇所の「へんろ転がし」と云われ急な上り下りがある遍路道の中でも一番と言われるほどの難所。途中の「柳水庵」では2−3名泊めてくれるとの事だが電話が通じない。 歩き始めて2日目の私がそこまで難所を歩けるか不安でいっぱいだったが、同宿の経験者から「行けるよ」のアドバイスをもらい「焼山寺」行きを決断。宿坊に電話をすると「相部屋でよければ、OK」の返事。これで決まった。 この日縁があって昨日「坂本屋」に同宿した大阪の女性(上田さん)と一緒に歩く事になる。5月上旬までの区切り遍路、出来れば全て歩きたいとの事で、道中いろいろの話しをしながら11番「藤井寺」に向け7時に出発。「四国三郎」と云われる吉野川を渡る頃この上田さんが転倒してしまう。たいした怪我も無く事なきを得たのだが、橋の上で小休止した際、金剛杖の上部を覆う帽子の中が2つに折れている事に気づく。先程転倒した際に折れたものだが、上田さん「お大師さんが身代わりになって助けてくれた」と感激していた。 11番を打ち、焼山寺に向かったのは9時55分。「納経所」で聞くと「十分行けますよ」と云われ意を強くする。 藤井寺の本堂脇から登り始めすぐに急坂、見る見るうちに高度をあげ先ほど歩いてきた吉野川や川島町・鴨島町が箱庭の中のように見えてきた。 鴨島町が作った小地図によると、焼山寺までの「へんろ転がし」は6ヶ所、登りが4ヶ所・下りが2ヶ所だ。この地図に励まされながら先へ進む、だんだん余裕も無くなり息も上がって来たが、女性の上田さんと同行と云うこともありなんとか頑張る事が出来た。 12時20分「柳水庵」のベンチでむすびの昼食、お茶や「絵葉書」の接待を受ける。ここで先発していた福岡の男性(世戸口さん)と合流、後半3時間の断続的な急坂は3人で一緒に苦しむこととなったが、何とか3時45分焼山寺山門へ到着することが出来る。 平坦な道で歩く訓練はしていたが、山登りはもう数年全くしていない私にとって今日のこの6時間弱は完全な登山、歩き始めて2日目にして身にしみて厳しさを感じた。他人の荷物の重さをチェックさせてもらったが私の荷物はちょっと重すぎるようだ。 「宿坊」は相部屋と云っても10畳以上はある大きな部屋に3名、全て歩きのお遍路さんだ。標高が700mあるので、夕方からは寒くなり、部屋にはストーブがたかれ、炬燵もつける。 夕食はいかにもお寺さんらしい精進料理。お膳を部屋に運んでくれて、同宿の3人でコミュニケーションをはかりながら美味しくいただく。
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4.焼山寺のお勤め、そして7時間の長い長い下り(3日目・4/29)
焼山寺・朝のお勤め 駒坂付近
焼山寺から13番大日寺への長い下り坂 宿坊での朝、山の冷気が心地良い。6時からお寺でのお勤め、流石にあらたまった気持ちになり緊張して正座。お経の簡単な説明と、読経の流れ等についての話しの後全員でお経を唱える。皆な神妙だ。 7時15分から、次の13番大日寺へ向け鮎喰川沿いの長い長い下り坂を7時間弱ひたすら歩く。山道を下るうちはまだ良かったが、舗装道路に入ってからの下りはきつかった。 おまけに私は歩き始めて40分程の時、舗装道路で転倒してしまう。 自転車の若い遍路さんから「はっさく」をひとつお接待で手渡され、この事をボイスバーに録音しているとき足元を歩道の段差から車道に踏み外してしまったのだ。ズボンの膝が10円玉大に破れ、左膝・左腕・左手親指の付け根の3ヶ所にすり傷を作ってしまう。20分ほどかけて手当てをしたが、骨等には異常なくほっとした。 「もっともっと注意をして歩かなくては、88番迄なんてとても歩けそうに無い」と大いに反省させられた。 道路沿いには、数箇所「お遍路さん、自由にお食べください」と書かれ駕籠の中に沢山の「はっさく」がお接待で置かれている。私も2個いただき、休憩の際美味しくいただいた。山の道なので地元の歩行者とすれ違うことはほとんど無かったが、車ですれ違う運転の人はほとんど頭を下げ会釈していってくれる。 朝のうちは涼しかったがすぐ晴れてきて暑くなった。日にも焼け大汗もかいた、後半はばてばてになって休憩の回数も増加、車のお遍路さんから冷たい飲み物のお接待をいただき生き返った気分も味合うことが出来た。 1時50分やっとのことで13番「大日寺」へたどり着く。昨夜焼山寺で顔見知りになった人のほとんどはこの門前の旅館に宿泊、私は16番まで先へ進む事にしていたので50分ほど休憩した後14番「常楽寺」へ進む。夕方4時30分16番「観音寺」へ到着。徳島市の繁華街に近づいてきたせいか出発以後初めて大型スーパーや飲食店の等のある街へやって来た。 お寺の近く旅館「鱗桜」へ宿泊、お遍路さんは私を含め3名のみ。夕食後ちょっと街へ出てみる。
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5.今日も良い天気、でも疲れが出て来た。立江寺まで(4日目・4/30) 今日も朝からよい天気、まだ雨に遭っていない。昨日の長い下りのダメージが残っている感じで7時55分、朝はちょっとゆっくりのスタートとなる。30分ほどで17番「井戸寺」を打つ。早朝なので境内も静かだった。 これから次の18番「恩山寺」までは、19km弱・5時半の道程となる。徳島市の眉山を見ながら大きな鮎喰橋を渡り、最近復元された地蔵越えの遍路道に入る。 沢の各所に手作りの「鹿脅し」や「小さな水車」が作られていて素晴らしいが、道はたやすくない。かなりきつい急な登り坂だ、疲れの残っている私にとっては暑さと重なり大変だった。 やっとのことで登りきり、自動車道に出てベンチも無い所で小休止していると、走ってきた車がわざわざ止まってくれ「具合でも悪いのではないかと」様子を見に来てくれた。
大きな鮎喰橋を渡る 苦労した地蔵越え遍路道 法花の川を渡った所でむすびの昼食、県道から国道55号に合流する所で道を間違えてしまい車の若者に道を尋ねる。丁寧に教えてくれ「車で送ってあげても良いけれど、歩いているのでしょ」に大きくうなずいて出発。勝浦川橋をわたり広い国道を歩く、「こんな大きな国道を歩くはずが無い」と言う先入観を持ちすぎたのが間違えた原因だと思う。 今日のようにお遍路さんに全く会わず市街地等を長く歩いていると「何故こんな所を歩いているのだろう」と言うような感じになり我ながらちょっと情けなくなってしまった。 2時25分「18番恩山寺」へ到着、お参りの後境内で休んでいると団体遍路の老婦人から「お接待です」と言われちらし寿司の弁当を、次の19番では、ベンチで待っていた婦人から手作りの小さな5円玉のついた「わらじ」を戴いた。 19番「立江寺」の宿坊に泊まる。2階の向かい合ってる4部屋の個室は満員だったが、それ以外の宿泊者は自動車で回る4人のグループだけだった。お寺でも宅急便の取次ぎをしてくれるとの事なのでMDやラジオ等、不要なものを自宅に送り返して荷物を軽くする。
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6.初めての雨、難所20番「鶴林寺」21番「太龍寺」へ(5日目5/1)
雨の中、鶴林寺山門へ 霧の中の太龍寺 朝からかなりの雨、初めての経験だ。カッパを着て折りたたみの傘、歩きづらいし、すれ違う車のはねも苦になる。大丈夫のはずの靴も徐々に水が染みて来る「雨の中を歩くって、こう云うことなのか・・・・」 通勤の車がひっきりなしに行き交い、歩道もついていない道を2時間半近く休憩しないで歩き登り口に到着、雨で腰を降ろせる場所が無いのでここでも休まず登山開始。 雨の降り続く急坂の木立のなかを1時間ちょっと息を切らしながら登って20番「鶴林寺」へ着いた。途中で会った歩きの遍路さんは1名だけ。 納経所で「歩いてきたのですか?」「はい、今朝立江寺を出て来ました」「良いものをあげましょう。今朝、檀家さんが持って来てくれたものです」と云ってパックに2個入った「よもぎ餅」をいただいた。普段余り甘い物は食べないが、この時ばかりはすぐに雨を避け本堂脇の階段で美味しく食べた。 鶴林寺から急坂を降りた休憩所の脇に「念ずれば花ひらく」の小さな石碑を見つける。「八字十音の真言・尊敬する仏教詩人坂村真民先生の生きた教訓を刻み建立する」とある。私の今は亡き義父の好きだった言葉で、実家にも同じ言葉の小さな石碑があるので深く印象に残った。 21番太龍寺へは折角登ってきたこの山を下まで降りて又厳しい登りとなる。標高500メートルから100メートルの那賀川まで下り、すぐに又500メートルまでの登りだ。所要時間3時間弱、雨の中二つの山を登って降りるのは辛い、特に急坂の下りは足の指が靴の先にあたり一歩一歩が痛くかなりのダメージを受けた。しかしロープウエーもあるこの太龍寺に悪天候の中、全てを歩き午後1時に到着。ちょっとした満足感に浸る。 きれいな花が随所に咲いているのだが寒い、あれほど汗をかいてきたというのに15分もすると寒くて震えるほどになってきた。お参りを済ませ、龍の天井絵を見て早々に退散。 ここから1時間ほど下った民宿「坂口屋」へ宿泊。 到着が3時と早かったのだが、すでに風呂の準備もしてあって一日雨の中で疲れた体にとっては何よりの薬だった。ドライヤーでぬれた靴を乾かし、夕方雨のあがった民宿近くを散策。地元の人から「はっさく」の接待をたくさん受け、同宿の人達と分け合う。 この日、今まで便利に使っていた「ボイスバー」が原因不明で故障してしまう、この遍路のためにわざわざ買い求めてきたと言うのに情けない。
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7.23番薬王寺・薬師会館へ泊まる、10疊に一人。(6日目・5/2)
22番平等寺・長い階段に1円 犬も一緒にお遍路さん アルミ貨を置きながら登る。 民宿の朝食は早い、6時20分には出発。朝のうちは半袖では寒くウインドブレーカーを着る。それもわずか1時間足らずですぐに300m弱の大根峠が待ち受けている。一日に一度や二度必ずこうした峠や山があって楽をさせてはくれず、すぐに大汗をかくことになってしまう。 2時間ほどで22番平等寺、長い階段に1円アルミ貨を置きながら登る人が多い。厄除けになるとの事で階段は1円玉でいっぱいである。 23番薬王寺へは、1時間半ほど山の中の道を歩いた後国道55号に出る、ここから5時間弱、4つのトンネルを通りひたすら日和佐へ向かう。以前車で走ったことがある道のはずなのだが全く覚えていない。 道中顔を合わせた歩きのお遍路さんは10名程、写真のような犬と一緒のお遍路さんもいるし、もう数日前から一緒で顔見知りの人もいる。若い女性のお遍路さんにも3人会った。途中のバス停で休憩していると、後から歩いてくるお遍路さんも皆立ち寄って一緒に話が弾む。 予定より早く2時20分薬王寺へ到着。山門から「女厄坂」「男厄坂」の石段を登り本堂へ参る。石段の脇には、司馬遼太郎著「空海の風景」・「石段を厄年の男女が織るように上下しており登るものは一段登るごとに1円アルミ硬貨をおとしてゆく」の石碑があり、納経所にはその為の1円アルミ硬貨両替機も置かれている。 日和佐の海や町並みが見下ろせる境内のベンチで一休みした後、門前の「薬王寺参籠所・薬師会館」へ宿泊申込みの電話、運良く空いていてここに宿泊。3階の広々した10疊の部屋にたった一人、のんびり手足を伸ばして休息。夕食前に市内の散歩をしてお土産屋さん等を覗きしばし観光気分を味わった。
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8.薬王寺から24番最御崎寺へ77Km・2泊3日(7・8日目・5/3-4)
南阿波サンライン(日阿佐〜牟岐)
GWで遊ぶサーファー 宿も決まってほっとして 今日から次の24番「最御崎寺」までは77km、2泊3日の旅である。この一週間ほぼ順調な遍路が出来たせいか、ちょっと歩き遍路を甘く見すぎていたのではと反省させられた一日だった。 その1は薬王寺で朝食の世話をしてくれた女性に「歩くなら海沿いの道が良いと思う」と言われ「南阿佐サンライン」を選択してしまった。これは自動車の道だった、景色は良いのだが、トンネルに歩道は無いし、かなり標高の高いところを長時間歩き距離も長く時間も余分にかかってしまう。おそらく宿の人は山河内からの自然歩道を教えてくたのかもしれない。 もっと地図を事前に調べなければいけない。 出発後4時間半(11時40分)歩き、牟岐の合流に出た時はほっとした。「もっと地図を事前に調べて、遍路道を忠実に歩くようにしなければ」と反省する。 1時10分「鯖大師」に到着。昼食にうどんを食べ「今夜の宿を」と思い電話を入れたら2軒・3軒・4軒目と全て満員。 「そうか今日からゴールデンウイークだった」今まで宿の予約は全く問題なかったので甘き見すぎていた。どうしょうかと顔面蒼白になってあせったが、何とか5軒目に電話した宍喰町の民宿に予約が出来てほっとする。 やはり宿泊先は早く決めなければと反省して、この場で明日の宿も予約をする。週末・GWは要注意だ。鯖大師のお参りを済ませると、もう2時になっている。れから宿までは16km、目標6時と決めて歩くペースを上げる。 海岸沿いの道をどこまでも歩く、磯遊びやサーファーの人達で賑わっている。海の無い群馬県で育った私のとって最も嬉しい道で楽しみしていたのだが、もうそうした余裕は無くなっていた。地図で見るほど平坦で楽な道では無いし、歩けど歩けど前方に新しい岬が折り重なって現われてくる。 終日一人で歩き10時間半、5時40分小雨が振り出し心細くなる頃やっと宍喰町の民宿「ぬしま」に着いた。 こんな時って宿で親切な声をかけてもらい、部屋に荷物を置いて風呂に浸かった時の気分は最高です。 そして格別に酒が上手い、ガイドブックに「アルコールは呑まない」なんてあるのを読んだからちょっと気はひけるがもうアルコールを抜く事は出来ない。「1日苦労して歩いた褒美」今夜はビール1本・酒2本。 TVもほとんど見ないで8時半頃にはもう寝てしまう。
****** 室戸岬への2日目、終日断続的な雨。早朝「水床トンネル」を越えて高知県に入った。 美しい室戸の海岸を左手に見ながらの道中だが決して平坦な道ではない、車だったらほとんど苦にならないような道でも歩くとなるとアップダウンの連続。歩道を歩いていてもすれ違う車のはねしぶきを頭からかぶってしまう。 歩き遍路の仲間もめっきり少なくなった、今日会ったのは1日で3人だけ。3時前の「夫婦岩」からは歩く速度もめっきり落ちてしまい、ひっきりなしに休憩をとる。 黄色のカッパを着た若い女性のお遍路さんにもあっという間に追い越され、10分も経たないうちに見えなくなってしまう。夕方猛スピードで追い着いてきた埼玉の男性は「まだ今夜の宿が決まっていない、連休なので電話を入れても直接宿へ行っても満員で駄目だった」との事。私の予約した民宿に「直接行って交渉する」と言い。これもあっという間に見えなくなってしまった。
Am7:00 甲浦 Pm2:30 夫婦岩が見えて 結局この日は、朝6時20分から夕方5時50分まで11時間ちょっと歩いた。24番最御崎寺の4km手前まで、全て国道のアスファルト上である。疲れもピークになったし昨日からの右足のマメは、小指と薬指の2ヶ所になってしまった。 一歩一歩足が痛い、時間の割に距離は伸びていなかった。 宿に着き、風呂に入っている間に雨にぬれた衣類の洗濯をしていただく。しっかり脱水してあるから部屋の中でも明朝までには乾いている。助かるよ・・・ 連休中だから民宿は満員、夕食の食卓は賑やかだった。病気療養中の旦那と車で遍路されてい夫婦と同席、「旦那さんの希望で回っています」と奥さん。犬を連れた遍路さんとも同宿になった夫婦岩で夕方になり、宿の車で迎えにきてもらった。明朝又夫婦岩まで又戻ります。」との事。先ほど私を追い抜いていった埼玉の男性も「相部屋で泊めてもらえた」と喜んでいた。
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9.室戸岬(24番最御崎寺)は快晴(9日目・5/5)
室戸岬は快晴・素晴らしい海また海
御蔵洞前 24番最御崎寺本堂 2泊3日、痛い、痛い足を我慢しながらやっと着いた「室戸岬」。持参の四国全図を見る、我ながら感心するほどの距離だ「とうとう室戸岬までやって来たぞ」の達成感、満足感がわいて来た。 昨夜はかなり強い雨が降っていて今日の天気も心配だったが、室戸の荒々しい海岸を歩き天狗岩にさしかかる頃はきれいな青空となった。 痛い足と、疲れた身体にとっては何よりもの薬だ。 御蔵洞を過ぎた登山口から最御崎寺へはわずか30分足らずだが、かなり急坂の登りとなる。歩き始めてまだ1時間もたっていないが今まで経験したことが無いほどの大汗をかいた。5月5日なのでお遍路さんのほか、観光の人達も大勢で華やかな雰囲気があった。ここでは3日振りのお寺なので1時間弱たっぷりの休憩。 今日は足も痛いし、疲れもあるのでゆっくりペース。最御崎寺からのスカイラインの歩道を下る、ここから見る室戸の海の眺望は素晴らしいし、次の津照寺までの2時間弱青い海の美しさを十分堪能出来た。 25番「津照寺」は室津港、室戸市の中心に近く賑やかな所だ。スーパーの脇を入る、大きな鯉のぼりが泳ぐ中を急勾配の長い石段を登ってお参りする。 納経所で「一番で買った、この納経帳は最後に又1番にお礼参りをするようになっているけれどそんな事って決まってない、お礼参りは高野山にすればそれで良い」との話しを聞く。 不勉強の私には難しい事は解からない。 26番「金剛頂寺」で大きなミスをしてしまった。20分かけて登りお参りを済ませた後帰りの道を間違えてしまったのだ。 どうしても帰りの遍路道の入口が解からず、納経所と門前がかなり離れているので道を尋ねないで、今登ったのと同じ道を下りてしまったのだ。途中登ってくる2人に声をかけられたと言うのに間違った先入感の方が強くて、完全に間違っていることに気付いたのはもうほとんど下りてしまってらだ。 従って「崎山」「平尾」の山道は歩くことが出来なかった。「元」から行当岬の海岸沿いを大きく回りやっと平尾で合流する。 時間のロスはともかくとして地図を持っていながらこんな間違いをした自分が悔しかった。 道の駅「キラメッセ室戸」で休憩、このあたり「黒耳びわ」の産地、山の斜面には白い袋をかけたびわの木で一面白い花が咲いているような光景だ。 ここの売店でも売っていたが、街道の随所にびわの売店が並んでいる。 今夜は「吉良川」で宿泊。この町は昔の町並み保存に力を入れて観光の人たちも歩いている。素泊りの宿だったので、近くのスーパーや酒屋で食料を調達して部屋で一人の夕食。ちょっと侘びしいので夜、保存されている町並みの見物に出てビールを飲んで帰る。
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10.足の痛みも、疲れもピークとなった。 (10日目・5/6) 安田町の「浜吉屋」へ今夜の宿を予約。 「吉良川からです」 「昼には着くでしょう、ゆっくり山へ行って来られます」 そう云われたからだけでは無い、疲れも足の痛みもピークだった。 今朝の出発は7時45分になってしまう。 1時間10分歩いたところで万歩計を見たらまだ4千歩にもなっていない。普通だったら7千歩は越えているはずなのに・・・ とにかく右足の小指が痛い、一歩一歩が今日も痛い。自然と歩幅も狭くなりペースもゆっくりになっていたのだ。 「こんな痛みがこれから1ヶ月も続くのか、1日3万歩とすると3万回痛い、30日だとあと90万回痛い思いをしなければいけないのか」「でもこれを克服してこそ四国遍路だ、誰から頼まれた訳でもない、自分好きでやって来たのだ」なんて事を考えながらゆっくり、ゆっくり歩いた。 ひっきりなしに時計を見る、15分もしないうちにまた見る、でも思ったほどには時間がたっていない。「よし1時間は時計を見ないで無心に歩く」なんて自分に言い聞かせて見るが、30分もたたないうちにまた見ている。後になって考えてみるとこの日が42日間の中で一番辛かったのかもしれない。 そんな訳で「中山越え」の遍路道も入口を見落としてしまい、海岸沿いの車道を歩くはめになってしまった。(しかし「遍路道」を大きくミスして歩けなかったのはここまで、これ以降の昔からの「遍路道」は99%クリア出来たと思います) やっとのことで1時前「浜吉屋」へたどり着く。荷物を置き、近くのドライブインで「五目そば」の昼食を食べ、1時40分27番「神峰寺」へ向かう。 偶然愛知の「荒川」さんに会って一緒に登ってもらう、手製の杖でかっこ良い。 疲れている時に話し相手がいるのは有難い、それに腹に食べ物が入ると不思議に元気が出て来る。それにしても、「背中に荷物が無い」と云うのはなんて楽なんだろう!! 午前中あれほど大変だった足が何とか前へ進んでくれる。 「神峰寺」への急坂も我ながらびっくりするほどのパワーで登りきった。 「そうだ、もっとリュックの重量を軽くしよう。不要なものは思い切り捨てよう」 「神峰寺」には往復3時間ちょっと、境内は大きなバスは登らないのでワゴンのタクシーに乗り換えた団体遍路さん達が大勢本堂への長い石段を一列縦隊で登っていった。 風呂の後入念にマメの手入れをする。同宿者5名で和やかに夕食。
神峰寺へ登る 神峰寺長い階段
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