15.7.11 朝日新聞 《天声人語》

 

 名もない新劇俳優が映画出演を依頼される。彼の舞台が高名な監督の目にとまったのだ。「虚無的な風貌(ふうぼう)」が気に入られての抜擢(ばってき)である。スターへの足がかりをつかんだ幸運に俳優は有頂天になりつつも、破滅の予感にさいなまれる。

 松本清張の短編小説「顔」である。俳優は9年前、殺意を秘めてある女と旅行した。途中、女の知り合いの男に偶然出会った。しかし俳優は殺人を決行する。唯一の目撃者の男は果たして自分の顔を覚えているか。舞台からスクリーンへ、有名になればなるほど俳優の特異な顔が男の目にとまる可能性は高まる。そのサスペンスを描いた。

 9日逮捕されたお遍路さんに、まずこの小説を思い浮かべた。12年前の殺人未遂事件で指名手配されていた80歳の容疑者である。俳句をつくり、接待のお礼に句集を配りながら四国八十八カ所を6年間巡っていた彼は、出会う人々に感銘を与えてきた「伝説的」人物だった。

 彼を追うNHK番組は5月末に四国で放送され、再放送もされた。そこで終わっていれば、逮捕には至らなかったかもしれない。しかし6月末に全国放送され、千葉県警の警察官の目にとまった。

 「死を覚悟の生涯遍路」とNHKが紹介した容疑者は、どんな思いで歩いていたのか。重い荷を背負っての巡礼であったことは間違いないだろう。

 彼の句集を出した出版社が、番組担当ディレクターの言葉を紹介していた。人は何のために生きているのかという根源的な問いを投げかけている遍路、と。容疑者と発覚したいま、問いはさらに切実に迫る。